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- あこがれのかの国のベールがはがされていく学びの日々 -

Regards sur la ville 東京を眺める

前回、前半の概略を載せてからしばらく経ちました。
今日は最後まで読んで日本語にしてみました。
今後手を入れてわかりやすい文章にしていきたいと思います。
こなれない文章ですが、一応大意は伝わるかと思います。
あくまでもある見方をすると・・という例として興味深い記事だと思います。


今年の夏、あるドキュメンタリーで、戦後、日本にも壮大な都市計画が考案されていたという記録があると、その図面が紹介されていました。中央に議事堂、都心から郊外へと延びる便利な大通り。しかし、当時の都知事が路上生活者の生活を優先したこと、国との連携を嫌い予算が活用されなかったこと、進駐軍により「そんな戦勝国みたいな計画はダメ」と言われたことなどから計画を断念。戦車がパレードできるような大通りを作ることは、許されなかったのでしょう。

さて、住民にとっては、昔からの伝統行事を中心に街づくりを再開することはお手の物、住民が立ちあがり各拠点からそれぞれの町が個別に発展して今のような東京の街ができたようです。ヨーロッパの整然とした街並みに比べれば、その乱雑さはとても美的というにはほど遠くはありますが、地域の結びつきが強くさらに愛着を感じる町です。


ここにご紹介する記事は、そのへんの事情を知らずに書かれたものかもしれません。
すべてが政府のコントロール下にあるフランスとはひと味ちがった街づくり、
多少の不便はありながらご近所付き合いが始まると、楽しい街だと感じます。
あとは、もっと緑が増えて、地価の問題、安全の問題がクリアーされれば・・・
と、その辺の事情も考察した一文です。
ちょっとわかりにくいですが面白い見方かとも思います。


日本の事情をフランス語で説明してみました。



街を視る / ジョリス・ダントン(ブログ)
東京、ポストモダンと冠される都市

東京は今や3740万の人々が住む世界で最も巨大なメガロポリスである。それを特徴づけるのは、都市と田舎の機能の交ざり合う、膨大な広がり、様々に異なる様式で作られた無秩序な建物群と、無秩序に交じり合う道路群である。

このユニークに織りなす街は、第二次大戦でアメリカの爆撃により破壊され、廃墟と化した首都の瓦礫の上に生まれた。
1946年、占領軍アメリカの指導の下に行われた農地改革により、日本に近代資本主義が導入され、具体化されていく。 農地改革は、個人の公平な土地所有を目標として推し進められ、農村社会の古い社会経済体制は消えていく。それは土地所有構造を根底から揺るがした。
しかし都市再建は都市構想を計画推進するものではなく、新たな都市は封建時代から続くシベリアス模様の網目に沿って再建されることになる。

1963年、23区内の建築物の高さ基準が緩和されると、首都中心部では極端な地価の高騰がおこる。
ボーナスゾーンと呼ばれるニューヨークにおける都市づくりの方式が採用され、空間内に公共スペースを確保すれば、ディベロッパーは土地利用率に関しての基準を満たさなくてもよいとされる。
70年代に入ると首都中心部は、昔からの狭い路地に沿って張りめぐらされた、老朽化した住宅と町工場の雑然と同居する広大な地域となる。
都市の再建計画は駅周辺を集中的に商業用地と指定して、居住用建物としてよりもオフィスビルにあてられる。この都市再建計画においては商業原理が優先される。

70年代初頭に行政が新たに着手した、多摩地区、港北地区、千葉などの、混雑緩和を目的としたロンドン郊外型ニュータウンを例にとってみよう。
首都東京のまわりに新たに生まれた「団地」と呼ばれる巨大な住宅地には、コンクリートでできた5階建の集合住宅が平行に並べられ緑地が施された。各々の住居は2から3部屋あり約50平米である。洋風の家具を配置するために畳は取り去られ、共同浴場(銭湯)の代わりに個人的にくつろげる内風呂が配された。
しかし、これらの街には工場を誘致することは予定されていなかったため、以後人々は通勤のため、朝夕の過密な人口移動を繰りかえすことになる。
戦後生まれの若者たちは郊外に独立した戸建住宅を探し求めるようになり、それが不動産の高騰を招く。

1973年、第一次オイルショックにより急成長は終わりとなる。土地の価格は上昇を続けるものだという神話は、戦後初めての土地価格の下落によりゆらいだ。
この経済の減退に対し、日本政府は、土地の規制緩和と不動産投資に関する刺激策により対応し、経済優遇政策をとる。好調な経済局面で有利に働く、80年代の不動産投機の原型がここにある。
金融業界を筆頭とする第三次産業の活動が急速に発展する中、土地のニーズは都市中心部に集中する。これ以後政府は、マンハッタン金融街をモデルとして、市街地の高層化を推し進めることになる。

アジアにおける土地経済論の専門家ナターシャ・エブリンは、この弾性力学について我々に解き明かしてくれる。
「この問いに答えるためには、日本の政府による販売促進システムの秘けつをよく調べる必要があります。経済的緩和策は、首都中心部に膨大な面積を必要とするオフィスビルを生み、実際、不動産業界は伝統的なやり方で深く介入していきました。流行遅れとなった60年代の建物は、すでに仕事に新基準を設ける企業の需要には見合わず、ロンドンやマンハッタンなどの都市の規格と同等のオフィスビルを建設するための広大な土地構成が必要となりました。
それが象徴的に実施されたのが六本木のアークヒルズです。この5から6ヘクタールの土地を更地にするには200軒の木造家屋およびコンクリートの建物、600の家族と商店を撤去する必要がありました。この規模での最初の民間事業であるアークヒルズは、地上37階地下4階、オフィスビル、コンサートホール、テレビ局の本社およびスタジオ、36階のホテルと3棟のタワーマンションを有しています。その成功は絶大でした。当初、月額9000円/m2に設定されたオフィスの賃料はすぐに2倍に跳ね上がりました。60m2のアパートに対して月額50万円という賃料もそこでは法外とは言えませんでした。」

同様にして1986-87年には市営住宅、県営住宅などが民営化される。都市住宅機構は不動産を売却し、新たな建設は中止した。むしろ逆に、50-60年代に都市中心部やその周辺に建設された集合住宅の改装に着手し、それは3から4倍という驚くべき家賃の高騰を許す。当然、買い手は、それに見合う4倍の収入がなければならない。元々社会事業であった公営住宅の役割が、急速に終わりに向う一方で、所有権を取り戻すために、初めての運動が住民により組織され、土地所有権に関して論争を引き起こした。

1986-89に起こった不動産バブルは1990年代に徐々に崩壊へと向かう。不動産価格は1年で70%も下落した。この価格の下落は90年代を通して続くことになる。
2001年、日本政府は土地価格の下落に真っ向から取り組むため、土地利用率の比較的高くなっている3大都市、東京、大阪、名古屋の都心をターゲットに都市再生事業計画を打ち出す。当局は、都市空間の活性化を助けるため、近隣に小さな公共スペース、居住空間、文化商業施設や設備を設けられる場合には、ディベロッパーに延床面積を増やすことを許可した。
この活性化は、多くの日本企業の東南アジアへの工場移転により起こった土地バブル崩壊の後、放置されていた工場跡地や鉄道用地を放出することによって支えられる。

もし今日、公的権力が都市計画を推進し続けるならば、あるいは、少なくとも大幅に緩和された不動産売買を養いつづける限りは、首都圏の人口密集化は都市の周辺に広がり続け、都市の空間構成は、変わらず入り組んだものとなるであろう。
その力学は4つの要素で説明される。すなわち、①国による介入の希薄さ、②私鉄の働きの大きな役割、③地主が享受している特別な保護、④深く日本文化に根ざした建築物の可塑性(もろいが建て直易いこと)である。

国の関与の希薄さは、遡れば明治時代の工業化から続いているものである。都市機能の管理は、中世から続く習慣に従い、町の住民に委ねられてきた。町内会と呼ばれる町の組織は、助け合いの関係を築き、結びつきを強めつつ、道の保全から地域の祭りまでを担ってきた。
住民により行われる自治の強さは、公的権力の不関与の原因であり、道路設置網の乏しさの元ともなった。アメリカの都市に於ける車道の占める割合は25%、パリでは20%なのに対し、東京においては7,6%であり、この不十分さが車の流れに様々な形で渋滞を引き起こしている。緑地帯も同様にして縮小されたものとなる。パリでは一人当たり15m2であるのに対し、東京ではわずかに3m2である。(ロンドンでは25m2)

私鉄各社は二次大戦以来、自社各駅の周辺に商店街、沿線に住宅を建設するなどして経済活動を多様化させてきた。唯一の公営鉄道であった国鉄も1987年に民営化されるに至り、この分野における正常化が終結した。以来各社は新たな街の拠点となる駅を建設しつつ、その沿線に通じる所どころに大規模な分譲地や行楽地を造り、隣接するサービスや市街化拡張を促進する事業を展開してきた。
車両交通網の渋滞と、私鉄各社の押し進める路線拡張により、鉄道は自動車と勝負を引き分け、今日でも旅客の32%を確保している。

日本における土地所有者の権限は、国家公益の前には非常に小さなものとなる。ゆえに公的権力は財政的政治的な価格を考慮するだけで、それらの開発整備計画を強行することができる。
1980年代後半に起こった不動産バブルは桁外れな地価高騰を引き起こした。(この投機の結果東京全体の不動産価格の総和は、アメリカ全土の総和に匹敵する) 続いて起こる土地価格の大幅な後退はあったにせよ、都市空間再整備の実施や公共設備の敷設において、地価高騰は非常に大きな妨げとなった。高値は土地所有者の細分化をもたらし、東京23区内の半数以上の区画は100m2以下となる。

土地が高価なものである一方、建物の価格はほとんど価値がない。
日本建築の奥に見る日本文化の可塑性の意味するのは、自然災害による建物破壊リスクのある地域への適応であり、耐久性30年に満たない建築素材を利用することである。そのため常に建築物は改築され、建築業界の経済的重要性は、日本の国内総生産に占める割合が8%にも上ることに示される。(対してフランスでは1%である。)

ところで、いくつかのユニークな特徴について、この都市網を考察してみよう。
複雑に交差する通りは名前さえないものが多く、様々な形式でできた建物は互いに入り組み、このような計画性の欠如した都市に向き合ったときには、嫌悪感さえ抱くと言う者もいる。

一方では、東京の無秩序建築群を、思想家ジャック・デリダにより理論化された脱構築という現代建築哲学に基づき構築された街なのだ、と理想化する者もいる。
前衛的無秩序をコンセプトとする篠原一男のような建築家は、この乱雑さをこそほめる。
それゆえ、最大のカオス建築理論家であるレム・クールハースは「今世紀の終わりには、都市の発展と建築物は、ある良識的な仕方で制御されうると予想できる、と単純に信じる者もある。ぎゅうぎゅう詰めの建物群は、永続的に改築される中で、政治的、財務的、文化的な力があらゆる方向に深く張り巡らされ、今後はコントロール不能となる。」と言っている。

しかし、日本地理の専門家であるオーグスタン・ベルクはこのテーマについて最終的な見解を述べている。「東京の『創造的なカオス』と言う表現には、意気高揚していた80年代の話法が読みとられる。それが人的、文化的に引き起こされた災難であることは、誰もが証明できるのに。そう、単純なプロパガンダ以上の思想こそ問われているのだ。それは、深く文化に、遠く歴史に根差している。
例をあげよう。東京に関する篠原一男のアナーキズム礼賛と、道教の言う無為とは、親子の関係にあり、多くの共通点を見つけることができるだろう。中国研究家が言う無作為の無秩序と関連づけ、語源的な意味で言えば「太古」、始まりの「不在」である。
問題はそのような『無秩序』が哲学的な意味における審美家の快楽を呼び起こすとしても、無秩序は必ずしも居住者に快楽をもたらすものではないこと、たとえその地域に根差しているという独自の位相的側面があるとしても。むしろその反対に、指導原理(連続的な都市計画)の欠如と、法人でもなければ手の届かない居住不可能ともみえる地価にみられるような、日本の最も弊害となっている都市問題との間には、密接な関係があるように思う。
例えば、たくさんある内のひとつが法律学者渡辺洋三の書いた記事である。アンリ・ルフェーブルと見方が近く「日本において都市計画は”生活”、環境、文化、歴史、伝統が無視されている。言い換えれば、それは目先の政治的経済的論理にのみ従い、座標軸を欠いた概念操作なのだ。それによってこの20年来、少なくとも支持されてきた東京の都市計画、『土地利用の集約化』が支えられてきたのではないか?」 渡辺は問いかけるが答えを示していない。ただ根本的な視点を欠くことを嘆くに留まる」。」
「都市は、領土は、その不調和をこねまわしている。都市はこのまま生き続けるのか? これ以上、日本が空間構造においてある種の現代化の圧力、政治の要請による強制を無視し続けることができるとは思わない。 篠原一男の言う『無秩序の美』はポストモダンからはほど遠く、田舎者まるだしの前近代性という対価をはらって、野蛮な利益を都市に持ち込んだものにすぎない。」


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