~~ 市民による地域精神保健 ~~ 

- 健康は権利 - (無断転載はお断りします) 中村佳世

Aさんの生き方 地域で暮らす方の生活支援


地域で暮らす方の生活支援

約30年間未治療の後に支援につながったAさんの生き方


                        

大野美子 
                   

愛知県精神保健福祉センター 精神保健福祉士                     統合失調症のひろば 2018.秋号              (筆者の許可を得て掲載させて頂きます)


 私は精神保健福祉相談員として、精神に障害のある方やそのご家族からの相談業務に従事しています。日々の仕事に向き合う中では、どうすべきか迷ったり、壁にぶちあたりくぞけそうになったりすることがあります。そんなときには、この仕事を始めた頃に保健所で関わったAさんの存在を思います。そして「Aさんならなんと言うだろうか」「この選択はAさんの暮らしに役立つだろうか」と考えます。私が仕事をする上でのひとつの指標となっているAさんとの出会いについて、これからお話します。(個人情報は改変しました。)


Aさんは50代後半の男性で、おそらく30年ほど前に統合失調症を発症していましたが治療は受けておらず、80代のお母さんと2人、お母さんの年金を頼りに暮らしていました。鼻をつくにおいで無精ひげをはやし、マジックで大きな文字のかかれたナップサックを持ち、税務署や警察、市役所、保健所にふらっと立ち寄っては、奇想天外な話をして帰る生活でした。
 私が保健所に入植する数年前には「~反対」という看板をもって騒いだり、車庫にペンキを塗ったりして警察に保護されることがありました。精神保健福祉法にもとづく警察官通報が出されたこともありました。「看板がないと歯科が開けない」と歯科の看板を無断で保健所に持ってきたため、職員が返却したこともあったそうです。警察に保護された折に、保健所職員が付き添って病院を受診しました。保健所が自立支援医療(精神通院)の受給申請手続きを手伝って自己負担なく通院できるように支援しましたが、「通勤費(電車大のこと)がないから行けない」と定期的な通院はしていませんでした。このとき、お母さんは介護区分認定を受けましたが、サービスの利用等は望まなかったため、地域包括支援センター(以下、包括)と保健所で見守っていく方針となっていました。


 それから半年後、保健所に入職した私はAさんと初めてお会いしました。Aさんは「本当の母親はパリにいる」「自分は市民病院の院長」「チフスがでたので保健所に来た」など、非現実的な話を次々するため、私は言葉を挟むことができませんでした。最初は「何を言っているのかさっぱりわからない」と戸惑いました。私はAさんのお話を理解するためには、もっとAさんのことをしらなければと思い、くらしぶりをしるために自宅を訪問することにしました。 
 8月の暑い日の午後、地図を片手に入り組んだ細い道を抜けてAさん宅を訪ねると、Aさんは不在でした。質素な一軒家にエアコンはなく、玄関が開け放ってあり、10匹ほどの猫がいたるところでエサを食べたり寝転がっていました。ブラウン管式のテレビは壊れ、電話線はハサミで切ってありました。薄暗い部屋の中でお母さんから話を聞くと、Aさんは「昼間はたいてい出かけて、焼きそばやたこ焼きを買って食べている」とのこと。お母さんはお金のことを強く心配していたため、「Aさんの診察も薬も無料ですよ」と伝えました。
 Aさんは市役所からお母さんの介護保険関係の手続きについて案内があると、市役所に出かけていましたが「坂本龍馬」「チャールズ・殿下」などと窓口で毎回違う名前を名乗るため、手続きができないことがありました。そこで、私から市役所に連絡して必要な手続きを把握しながら「おかあさんを介護するAさん」を支援していくことにしました。
 はじめは戸惑ったAさんの奇想天外な話も、その背景には現実的な困りごとがあるのでは、という視点で聴いてみると、支援のためのたくさんのヒントがかくれていることに気づきました。「警察に3億円の通帳を返してもらえない。ひき逃げ犯にされて運転免許証を取られてしまった」は、お金が足りなくて困っている」、「チフスがでる」は「猫がたくさんいて住環境が不潔だという心配の現れ」だと理解しました。妄想の話として、ただ聞くにとどめていたことの中に、たくさんの豊かな世界がありました。Aさんは大変博学で、新聞の片隅の記事がキーワードとなってその日の話題が展開していることにも気づきました。これまでAさんは警察・税務署・保健所などの応対すね相手と話がかみ合わず一方的に話して帰るという形になっていたので、現実的な課題を相談しに保健所に来るようになってほしいと私は考えました。
 私は病院のケースワーカーと連絡を取り、お母さんの年金支給日に合わせて予約し、Aさんの電車代を確保しやすい状況で、定期的に受信できるよう工夫しました。また、精神障害者保健福祉手帳についても説明し、手帳取得を支援しました。面接で話したことを整理して、次の面接までにやることを書いたメモを渡すよう工夫したところ、Aさんは少しずつ必要な手続きを重ねていかれました。
 お母さんの介護保険認定調査にAさんが立ち会うときにも同席しました。包括職員には、ヘルパーを利用してお二人の生活支援をしていきたいと伝えましたが、「あの家に入れるヘルパーはいません。Aさんは実の母は別にいるといってお母さんのことを母親と思っていません」と言われてしまいました。
 その年の冬、Aさんとともに障害者相談支援センターを訪れ、障害福祉サービスの利用を相談しました。Aさんは「私はパリの生まれ。最高裁判所の裁判官で坂本龍馬ですが、今はAと名乗るように言われています」と言い、こまっていることは「知的障害の同居人(お母さん)が心配」と話しました。家事援助サービスを利用することは難しいとの判断で、保険がAさんを訪問する際に障害者相談支援センターにも同行してもらい、二人と関係を深めながら、福祉サービスを利用するタイミングを考えていくこととなりました。
 翌月、Aさんは「ノーベル賞 保健所 田中ベン・ケイシー 外出はAと申します」と書いた紙をもって保健所に来ました。ベン・ケイシーとはAさんの若い頃にテレビ放映されたアメリカのテレビドラマの主人公で、医師なのだそうです。外出先では本名を名乗るとのこと。思えばこれまで長らく「Aさん」と呼ぶ人が周りにいなかったのかもしれない、保健所や包括職員に親しみを込めて「Aさん」と呼ばれるようになって、Aさんとして生きる時間ができてきたのだ、と思い至りました。
 出会って1年ほど経った頃、Aさんと駅でばったり会ったことがありました。「(院長をしている)市民病院に行ってきました」とのこと。天気予報どおりに笠を持ち、春らしい色のこざっぱりした服装をしていました。一緒にいた上司が「Aさんしっかりしてきたね。出勤する人にまぎれちゃうほどだね」という程の変わりぶりでした。


 生活は月額17万円のお母さんの年金で、お母さんが州3回タクシーで近所の八百屋に行ってツムで買い物をし、2か月に一度の年金支給日に15万円ほどのツケを払いにいくという「自転車操業」状態でした。また、屋根修理の業者とお母さんが契約してしまったり、壊れたテレビなのにNHKの受信料が長らく引き落としになっていることがわかってきました。Aさんと一緒に保健所からNHKに連絡して解約の手続きをし、5蔓延ほどの返金をお願いすることができました。
 また、Aさんの障害年金受給の可能性を探って、Aさんと年金事務所に行って加入歴を確認しました。Aさんは厚生年金に加入していた時期もあったのですが、仕事ができなくなって国民年金に切り替わった後、免除申請をせずに年金が未納だった機関が長いため、障害年金の申請要件を満たさないことがわかりました。厚生年金を納めていた期間もあるAさんが、発症して免除申請の手続きの必要性を認識していなかったばかりに、障害年金受給できないのは気の毒なことだと制度の壁を感じました。30年ほど前にAさんが一度受診したとされる病院に初診証明を出してもらえば年金受給の可能性ができると考え、Aさんが「頭を撃たれて入院した」などと口にする病院に片端から電話して精神科受診歴を探しましたが、情報は得られませんでした。
 2年目になると私は、Aさんに、通う場所や現実的な仲間を作りたいと思い、地域活動センターの陶芸プログラムの見学を提案しました。Aさんは「自分は陶芸のプロで加藤四郎座衛門という名前で陶碑も経っています。アマチュアではやってはいけないと言われています」と話した後、「行ってもいいですよ。プロだということは伝えてください」と乗り気になりました。
 見学の日、Aさんは作業ズボンをはき、緊張した面持ちで現れました。素焼きの作品にサンドペーパーをかけているとメンバーから「すごく上手ですね。プロみたい!」と言われ、にこにこと嬉しそうでした。「市の施設に私の作品があります。Kenzoです」とはりきっていました。お昼になり「これで帰ってもいいし、お弁当を買って午後も参加しますか」と尋ねると「午後もやりますわ」と笑顔で言いメンバーと一緒にお弁当を食べました。Aさんが支援者以外の仲間と一緒に過ごす姿を見て、私はしみじみ嬉しく思いました。
 Aさんは面接の際、20年以上前の古い手帳を持参し、片隅に達筆な字でメモをしていました。新しいノートを買うよう提案したところ、Aさんは新しい手帳を買ってきました。表紙をめくったところ
に、「保健所、大野さん、××-××××」と電話番号が記入してあり、困ったときに連絡できる工夫をしている様子が伺えました。これ以後、面接や病院の予約や訪問などの予定を手帳に記入し、ほぼ約束通り行動するようになっていきました。日々の生活に予定や約束があることで生活に張り合いができたようで、それはとまっていたAさんの時間が動き出したようでした。いいえ、Aさんの生きる時間が他の人の生きる時間と重なり始めたようでした。もって早く手帳を持つ提案をすればよかったとAさんから教わった思いでした。
 この頃、私はAさんの支援と並行して、お母さんの支援に向けて関係機関に働きかけていました。お母さんはお金の管理が覚束なくなっており、大事につけている家計簿はゼロが一つ多くてもきにならない様子でした。また「Aさんの結婚式の予約をする」と言って式場にでかけたり、近所の新築の家に転居するといってAさんと2人で片づけ始めたりしていました。そこで、保健所、包括、障害者相談支援センター、成年後見センター、民生委員、市役所の福祉課と後継福祉課の職員が集まって2人の暮らしぶりを共有し、もっとくらしやすくなるような知恵を出し合う場を持つよう心がけました。
 当初、支援者の出入りを望まなかったお母さんも、訪問を重ねるうちに包括職員に慣れていき、認知症の診断と介護認定を受けました。Aさんの障害福祉サービスとお母さんの介護保険サービスの両方で家事援助サービスを提供してくれる事業所を探し、買い物や掃除、食事づくりをお願いしました。また、お母さんは成年後見制度を利用することになり、後見人がつきました。当初は後見人から「54兆円云々という話になってしまい通じない。制度理解はできていますか?」と戸惑いの連絡が入ることもありました。そのたびに「Aさんには空想と現実の世界が二重に存在しています。放っておくと空想の話に流れてしまいますが、現実に焦点を当てるとよく理解されています。お母さんのお世話をしようとする気持ちは強い人です」と説明し、こまったら連絡してもらって私も一緒に対応を考えるようにしました。


 Aさんと出逢って3年目の春のことでした。訪問中にお母さんが古いアルバムを取り出して昔の話をしてくれました。Aさんのこども時代の写真には、お父さんの写真がほとんどありませんでした。当時、お父さんは精神科病院に入院していたとのこと。「Aを産んだ後、おぶって仕事に行っていた」とお母さんが聴かせてくださいました。
 私はこの日、お二人の生きてこられた歴史を垣間見て、厳粛な思いとなりました。お父さん、Aさんともに精神障害があるなか家族が身を寄せ合い、支え合って生きてこられたのだと思いました。近所の人たちもAさんのことを子どもの頃から知っているので、排除することはありません。それでも地域の繋がりから孤立する中で、Aさんはお母さんへのおもいやりや他者へーの配慮を忘れずにいます。自分がこの境遇に置かれていたら、Aさんのように生きられただろうかと自らを振り返りました。また、Aさんはお母さんに大事にそだてられたからこんなに優しいんだな、とAさんの健やかさを改めて理解した想いがしました。
 次第にAさんは、頑固なお母さんに手を焼くヘルパーや後見人から「お母さんを介護する長男さん」として頼りにされるようになります。お母さんがのどに食べ物を詰まらせたときには交番に走り救急車を呼び、夜中にお母さんをおぶって帰宅しました。預金を下ろせないことを理解できないお母さんが、大雪の年金支給日に銀行に居座ってしまったときには、後見人が車でお母さんをなだめ続けました。Aさんは家族としての「普通の苦労」をするようになっていました。「なかなかいいアイデアがなくてごめんなさいね」と私が言うと「それは違います。町には障害者がたくさんいて、みんなやっていたら大変だから放っておけばいいです」と支援者をねぎらう姿勢を見せてくれたこともありました。人間関係の機微に敏感で、他者の気持ちを配慮した暖かいコミュニケーションをするAさん。Aさんの魂の健やかさは、周りの人の心を打って、Aさんやお母さんのためら何とかしたい、と支援者を動かす力になっているのだな、と感じました。


 ケア会議を開くときには、Aさんも出席しました。職員が名刺を交換していると「今日は名刺を持ち合わせておりませんが、名前はピエール・カルダンと言いまして、パリの生まれです」とはりきって挨拶しました。包括職員やヘルパーも「どっかで聞いたことあるね」と笑いながらAさんの二重の世界を自然に受け止めるようになっていました。日頃の介護の楼をねぎらってもらい、Aさんはとても嬉しそうでした。
 会議ではAさんと支援者が暮らしぶりや困っていることを共有し「生活の知恵」を出し合いながら、Aさんとお母さんが暮らしやすくなるよう解決策を見つけていく場でした。Aさんの家はベッドの下に子猫の死骸があるなど不衛生な状態だったので、ヘルパーと一緒に捨てるものを整理しました。力もちのAさんは家具を処分するときにも大活躍でした。支援者とAさんで「バルサン」を焚いてダニ退治をする作戦を立てたこともありました。また、お母さんに何かあったときにAさんが支援者に助けを求められるよう、電話線を付け替えて開通させました。
 ヘルパーと一緒に買い物に行き、週に決まった金額でやりくりできるよう練習していくことになりました。Aさんは長年ツケで買い物していたために金額を意識する週刊がなかったので、できるだけ安く買えるようスーパーの特売庇護に合わせて出かけました。私たち支援者は「長らくツムを許してくれていた商店街でなく、大型スーパーで買い物するよう勧めることは、支援者として傲慢な態度ではないだろうか。地域の繋がりを切るようなことをしてはいけないのでは・・・」という葛藤も抱きました。猫が増えすぎて家計を圧迫するほどの餌代がかかり、お二人の健康状態が心配なほど不衛生な状態になったため、猫の処分を検討することになりました。「お母さんが可愛がっている猫を処分してしまうことは支援と言えるのだろうか」と悩みながら議論を重ねました。支援方法に行き詰まるときには、Aさんに尋ねておふたりの意向を大切にしながら、方針を決めていったように思います。
 あるとき、会議終了後に私が残って打ち合わせをしていると、Aさんが私を待っているとのこと。夕暮れの風に吹かれながら玄関前のベンチに並んで座ると、Aさんは「今日は仕事みたいで嬉しかった。いつでていくかわからないあの人(お母さん)を見張って2階で寝ているのは辛いですわ。仕事がしたい」と言いました。「Aさんもお母さんにつきっきりではくたびれてしまうので、出かける日があるといいですよね。仕事のことは障害者相談支援センターに相談してみましょう。どんな仕事をしてみたい?」と訊くと、Aさんは「医者はもう難しいからやめようかね。細かい作業はできないから、身体を動かす仕事がしたい」と言いました。


 4年目の春、私は保健所から異動することになりました。後任者とAさん宅へ訪問し、引継ぎとあいさつをしました。帰り道、少し遠回りして駐車場までAさんと2人で歩きながら、思えば訪問したときには必ずAさんはこうして駐車場まで送ってくれたな、と思いました。「最初に保健所の所長さんから大野さんを紹介されたときには(このような事実はない)、こんな若い人に私みたいな老人の世話ができるかと思いましたが、いろいろとお世話になりました。実はこう見えて私は300歳を超えておりまして・・・」とお礼を述べ、「大野さんも身体に気をつけて元気でやってください」と、車がみえなくなるまで手を振って見送ってくださいました。
 最後まで奇想天外なご挨拶でしたが、Aさんらしい思いやりのある温かいお別れの表現だと感じました。思ったよりもあっさりと後任者に引き継げたように感じ、市松の寂しさとともに、ご本人の変化を実感しました。保健所だけのかかわりから、支援の輪が広がり、支援者や地域の中にAさんの役割ができたことを嬉しく思いました。


 異動後しばらくして、Aさんの突然の病死をしりました。訪問したヘルパーが、2階の自室で倒れているAさんを発見したとのこと。連絡を受けた私は胸がつぶれそうに悲しく、帰宅途中に涙がこぼれました。まさか、Aさんのほうがお母さんより先に亡くなってしまうまんて。お母さんに何かあった際にAさんが対応できるように工夫してきたつもりでしたが、Aさんに何かあった場合にお母さんが対応できるような配慮を十分できていなかったと深く後悔しました。
 あるケース会議の帰りに、包括職員が語った言葉が忘れられません。「Aさんと大野さんにお寧を言いたいです。包括の前の看板が風で倒れていると、Aさんが必ず立てて直してくれるんです。よく考えてみたら、以前からそういう人だったんだけれど、訪問すると仁王立ちのAさんが出てきたり、近所をぶつぶつ言いながら歩いていたりで、私たちは怖いという気持ちが先行していました。あんなにお母さん思いの無数河さんはなかなかいないということがだんだんわかってきて、優しい人だったんだと気づくようになったんです。」
 Aさんと一緒に買い物に行っていたヘルパー事業所の職員はこの後、精神障害について専門的に学んで今後の支援に生かしたいと精神保健福祉士の資格を取得しました。Aさんの存在が地域や支援者に与えた影響はとても大きなものでした。


 現在、精神障害のある方たちの地域支援においては、高齢福祉分野との連携が課題になっています。統合失調症の方が高齢の親と生活していたり、ご自身が65歳以上になって障害福祉サービスから介護保険サービスに移行する事例も増え、精神保健福祉分野と高齢福祉分野の連携・協働がますます求められています。包括が見守り訪問自に、長期の引きこもりケースや、精神障害のある人を長らく抱えている家族を「発見」することもあります。地域づくり・啓発・人材育成においては、まずはケース支援を一緒に経験し、その方の人となりや、障害特性上配慮することを知ってもらい、支援のやりがいを共有することが大切だと実感しました。
 私自身、Aさんのような当事者の方から教わることが多く、支援者として育ててもらっていると感じます。支援方針やご本人について「わかった」と思った次の面接で「わかったつもりになっていた。申し訳ない」と思うことがしばしばあります。妄想だとかたづけていたことが実際のことだったり、教養深さに感心したり、妄想はAさんにとって大事な世界なのだから、もっと耳を傾けなければいけなかったのではと思ったり。これほどの妄想がありながらも、生活していく力があり、人間関係の機微に敏感で思いやりのある人でした。
 医療に早くつながっていればもっとAさんらしい豊かな人生を送れたかもしれないと思う半面、入院中心の日本の精神医療史に対するアンチテーゼのような人だ、と感じることもありました。長らく地域の中で生活しながらも誰とも十分疎通できず、いわば「孤高の人」として妄想の中に生きていた人が、家族や地域の中に役割ができるうち、母親の介護といういわば「普通の苦労」を味わいながら活き活きとして頼りがいのある長男さんになりました。医師であるという妄想が強かったAさん自身の口から「もう医者はやめておこうかね」という言葉がでてきたときには、妄想の世界だけに頼らなくてよくなったことによる変化だと感じました。
 ご本人のいきてきた歴史に敬意を払うこと。地域のもつ力を分析してコミュニティの力を借りる姿勢で支援にあたること。ご本人のもつストレングスに着目し、寄り添って関わることの大切さ。人は支えられるばかりではなく、誰かの役に立てることで居場所や生きがいを得るのだから、その人が自分なりの役割を見つけ、その役割を果たしていけるよう支援することが大切なのだということ。本当にたくさんのことをAさんから教えていただいたと思っています。


 Aさん、今どこにいらっしゃいますか? パリの空の下? 激動の明治維新? 300年後の未来? Aさんの死を知って落ち込んでいたとき、先輩相談員にAさんとのお別れの日のエピソードを聴いてもらいました。先輩はこう言ってくれました。「大野さん、それはAさんからのメッセージですね。私は300歳。もう十分生きたから、悲しまなくていいと」。
 Aさんは、長らく未治療でも、妄想があっても、面白くて優しくてお母さん思いで、周りの人を変えてしまう程の存在感のある人でした。私は保健所のある街を通ると、川辺の道を歩くAさんに今でも会えるような気がします。Aさんの生き様を皆さんに知っていただきたくて、私はこの文章を書きました。


(付記 : 文中、『長男さん』と書かれている部分に、ある種の偏見を感じる方もおられるかもしれませんが、筆者の気持ち、文章の雰囲気を尊重してそのまま転載させて頂きます。)

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