~~ 市民による地域精神保健 ~~ 

- 健康は権利 - (無断転載はお断りします) 中村佳世

寄稿 セルフアドボケイトの試み

市民の基本的人権と地域共生

~セルフアドボケイトと市民の意見~

              

序に代えて

コロナ禍を含む4年間、フランスに於ける地域精神保健の現場で学んできました。その際、資料探しから文字起こし、論文校正等の過程で多くの人に助けられました。中でも日仏両方の文化を背景に持つ清水アドリアンさんは、常に誠意をもって私を見守り、議論を重ね、探究を支えて下さいました。この小論を書くに当たり寄稿頂きましたので序といたします。


視点

清水アドリアン

『平等』は西洋民主主義の理想の一つであり、ヨーロッパでは、『平等』の範囲拡大に向けて、政治が法の整備を推進してきた。20世紀後半、平等は最も脆弱な人々にも拡大され、2005年のEU「権利と機会の平等のための法律」では公共施設が「あらゆる種類の障害者」にアクセス可能であることを求めている。

革命以来、フランスにも法の前での全ての市民の平等、生活条件の平等化という目標があった。特権を排し社会的差異を縮め、全ての市民が同じ機会を持つという条件を達成するため、1881年以降、公教育の無償化、競争試験による公平な公務員の選出、1893年には医療援助無償化などが創設された。現在、フランス労働法は、20人以上雇用する場合の法定雇用率を6%と定めており、脆弱さを指摘されながらもこれらの制度は存続している。

さて、1858年の開国以前、世界の政治経済に参入する以前の日本で、地域社会が精神疾患とどのように向き合っていたか、他の国々とそれほど変わりはなかっただろう。中世ヨーロッパにおいて『狂気』の人々は社会の片隅に追いやられ、人道主義的な規範により救済されることはなかった。狂気の謎と現出を感じた「健常な」人々は彼らを遠ざけようとしたが、それでもなお彼らは地域で暮らし人々の間に居場所を見出していた。

19世紀以降、精神障害が病と見做されるようになると、科学的治療を目指して医療的施設ネットワークが整備された。その意図は、それまでただ見捨てられ、スティグマを抱えた人々に医療的解決策を提供するという、真の人道主義的な動機から来ているように思われる。人権の理想が普及し、1789年の宣言で確認された人間の尊厳が、契約を通じて形式化されたことで、人々の考え方が進化したのだろう。この尊厳は、自由と平等という二つの中心的な価値観を通して実現されるものである。

日本における基本的人権の概念は、1946年、「日本国憲法11、12、13、14条」に明記されるより以前、20世紀初頭の日本社会と政治思想に既に浸透していた。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭で「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と記している。日本社会が西洋の文化的枠組みに適応していく過程は、医学の分野にも明らかに適用され、1919年、呉秀三が患者の私宅監置を目撃したことは、日本にも施設を創設する強い動機となった。それは、彼らを病院に収容することで虐待から解放し、全ての人が有する権利と尊厳を返す試みであった。

2度の世界大戦を挟み約1世紀、閉鎖環境の中で人権侵害が起こり、患者の人間性が無視され、存在が奪われる可能性があることがわかるにつれ、市民社会には、より倫理的な精神医療のアプローチを求め、患者のケアと社会への包摂に適切なバランスを求める動きが加速する。強制的であるか否かを問わず患者の施設収容に伴うあらゆる経験を経た今、自由と平等を実現しようとする希いは一層強まっている。包摂的で利他的なダイナミズムは、患者を支援する責任者全てを対等な立場で巻き込む。

ヨーロッパやその他の地域で、患者を精神病院から「解放」し、オープンにするための様々な政策が試されてきた。イタリアは精神病院の門を開け、ベルギーは30年かけて「患者へのアウトリーチ」を試みる。フランスは地域毎の公的ケアを構築し、不当な自由の剥奪を防ぐために強制入院の条件と監視を強化している。文化的、地理的に非常に近いイタリア、フランス、ベルギーが、このような著しく異なる道を歩んでいることは、文化的な特性という側面が避けられないことをよく説明している。この学会とそのテーマに関する活発な議論が示すように、日本も精神医療の考え方の進化や特定の慣習の改革に積極的に関わり、同時に自国の文化的な特性を統合することを目指している。

施設的管理によるのか、その人の暮らしの中で行われるのか、その均衡を図る様々な試み行われているが、未だスキャンダルが続いていることから、未だ完全にその均衡に達してはいないと言える。しかし、日本のみならず世界中で精神医療に関する活発な議論が行なわれており、そこに関わる人々、医師、看護師、各福祉士、利用者自身が刻々と進化しており今後の変革については楽観的である。

これらの変革には、個人を見守り、機関を監視する制度や組織の発展、法律の改正も必要である。が、特に見落としてならない基準として、何よりも全ての関心の中心に本人を置くという倫理的な思考を深める必要がある。それは、患者に対する恥ずべき虐待の原因となる、私たちの一つひとつの失敗を克服するための唯一の鍵となるだろう。




 民間病院が85%というベルギーでは、保健省の真摯な努力により『生活と活動の場でのケアと共生』への制度改革が進み、多くの利用者が自分の場所で療養しながら自身の活動を続けられるようになりました。それを可能にしたのは豊富なインクルーシブ住宅と自由度の高いモバイルチームのサポートです。改革は、WHO協力センターのあるフランスリール市東地区を始めとする世界の地域精神保健から学び、地域でのインフォーマルケアを重要とするWHOの指針に沿って行われました。

ベルギーの精神保健改革、進捗状況 - ~~ 市民による地域精神保健 ~~ 

地域共生のもう一つの柱が、市民としての基本的人権が保障されることです。ベルギーも1990年に強制入院の条件を厳格化し、措置入院の際には司法を介しての事実確認と同時に退院の可能性を探るなど、条件を厳しく定めています。

【病院の変容と精神保健改革 要点】 - ~~ 市民による地域精神保健 ~~ 


この小論では、当事者自身の要求から生まれたフランスの強制入院時の権利保障の試み『司法審査』を、市民の意見を紹介しながら詳しく取り上げてみたいと思います。基本的な権利を守ろうとする市民の努力が伝われば幸いです。




I  セルフアドボケイトの試み

~ 市民の基本的人権を保障する ~

 フランスの当事者が自らの基本的人権を守る試み、セルフアドボケイトの試みの成果として、入院中に守られるべき利用者の権利憲章作成と、強制入院時の司法審査の導入があります。

利用者の権利憲章

『基本的人権』は、『特権』を摘み取ることで獲得してきた歴史の積み重ねがあると言われます。『人権』には既に平等というニュアンスが含まれており、人の尊厳を守るためには『平等な自由』が大切と言うことです。また、『自由』という時には他者の自由、相互の自由が前提とされます。強制入院は、まさにその問題と直面する課題です。

2000年12月、当事者団体Fnapsyが作成した精神科の『利用者の権利憲章』に、保健省の障害担当秘書官立ち合いの下、病院協会と当事者団体Fnapsyの間でサインが交わされました。入院中の権利を保障するもので、法的な拘束力は持ちませんが、退院時には、入院中の権利が守られたかを確認する利用者アンケートも行われています。

利用者による『精神保健における利用者憲章』とリスボン宣言 - ~~ 市民による地域精神保健 ~~ 

精神科利用者満足度アンケート調査項目の例 - ~~ 市民による地域精神保健 ~~ 


強制入院の司法審査

強制入院

フランスの強制入院には措置入院と、犯罪に関して責任能力がない場合の困難者病棟への入院があります。(医療観察に似る)

いずれも入院先は公立病院に限られ、国内の保健所や欧州拷問等防止委員会による抜打ち監査があります。措置入院の人口比は日本の医療保護入院とあまり変わりませんが、平均入院日数が短いのが特徴です。日本で医療保護入院としているものの中には、本来は措置入院にあたる、自傷や家族等への他害の疑いのあるものが含まれるのではないかと想像します。

2010年、入院者のひとりであった女性ダニエルさんが、強制入院時の憲法上の法的不備を訴えたことを受けて、憲法院による審査、国会審議を経て2011年に『司法審査制度』が成立しました。その後2013年に機関が短縮され、更に2021年には隔離拘束についても自由と拘束専門判事への報告を義務化、判事の権限が拡大されました。


強制入院の条件

第三者の要請による措置入院等の場合は、ひとりの外部精神科医を含む原則2人以上の精神科医の診断が必要で、3日目に当該精神病院の責任者の診断が必要です。いずれも総合医による健康診断があります。(詳細については省略)

自由と拘留を専門とする判事JLD(以下判事)による司法審査

強制入院後12日以内に弁護士をつけ、病院内に設けられた面談室で判事が司法面談による審査を行い、反対意見があれば審査の後、医師等と合議し最終決定がなされます。入院者、医師共に10日後に不服申し立てができ、入院が継続される場合6か月ごとに再審査が行われます。

本人が自らを語る貴重なセルフアドボケイトの機会であり、面談は判事以下、全員が普段着で行われることも大事なポイントです。

判事が司法審査で確認すること

・司法審査の意味を伝えた上で、入院の原因となった事実を検証し確認する。

・入院手続きの際に人権侵害がなかったか、本人同意の確認が決められた手順 で正しく行われたか、診断の過程と結果、権利が本人に伝わっているかなど確認。

・将来に向けての希望、意思を尋ね、住居や通院など退院の可能性を探る。

・これらを聞き取りつつ、自傷他害の怖れについて判断をする。


ボルドー中央病院の院長によれば、「当初は医師側の反対が強かったが、今では医師側も、自分に見せるのとは異なる面が見られ参考にしていると概ね納得している。2019年現在、2割がこの制度により退院している。難点は書類作成が増えた事。」

モンペラン病院の患者対応窓口では、「医師は専門の性質上疾患に注目するため、判事が素人目に接することが本人にとっても却って良いのではないか。」とのことでした。

個人の基本的人権と公共の福祉とのバランスはどうしたら取れるのか、精神保健の課題自体が人間社会の複雑さからきていることから、完璧な制度というものはなく、この制度についても様々な意見があります。



II 市民の意見


ドキュメンタリー映画『12日』


“12 jours”, de Raymond Depardon - bande-annonce

対訳

司法による入退院審査、ドキュメンタリー『12日』 - ~~ 市民による地域精神保健 ~~ 


2017年、司法審査制度が実際に行われる現場を描いた、ドキュメンタリー映画『12日』(12 jours)が公開されました。かつて、バザーリアから、精神病院の写真を撮ることを依頼されたことのある写真家レイモンド・ドゥパルドンの作品で、院内面談室で収録された70名中10名の司法面談の様子が描かれています。一人ひとりの真剣な対話が感動的です。このドキュメンタリー映画では、約5割がまもなく退院したと言われています。

これまで20回ほど、日本の当事者や専門職の方と小規模な上映学習会を開き、意見交換をする中で、「聴いてもらう機会が欲しい」「判事が優しい」「最低限弁護士をつけて欲しい」「医師が医療に専念できる」「日本の判事には無理」「患者の質問が深い」「なぜ面談を受けなければいけないのか?」「判事は選べるのか?」「多重支配のおそれは?」など多くの意見が聴かれました。

平均的な考えを知るのには統計が必要になりますが、司法審査についてフランスの市民がどう感じどう考えるのか、特に精神保健を専門としない4人の市民にドキュメンタリー映画『12日』を見て頂き、個別に意見を伺いました。

A.Cdpさんは、危険なことをした場合にはやはり入院が必要とした上で、この制度の分析と必要性を、B.M.さんは、入院治療は19世紀的なものと感じると口頭で前置きがあった上で制度の矛盾を指摘、A.S.さんは精神科医が同席しない事で自由度が増す点を強調、E.L.さんは強制入院がある限り人権の保障は不可能である事を前提として哲学的な回答をされました。


感想 (括弧内は大学での専攻)


感想1. A.Cdp (政治学、法学)

フランスでは、本人の同意無く精神科病院へ強制収容する際に、自由と拘留を専門とする判事が、重要な役割を負っている。

司法審査要点

強制収容を吟味 : ある人が精神科に本人の同意無く入院させられる時には、判事が聞き取りを行い、その措置を吟味した上で許可を下す。これは、第三者によるか、または他害を理由に知事の要請による緊急の入院の場合である。

定期的な審査 : 判事は、入院過程においてその人の基本的人権が守られていたかを確認する。また、その措置を継続するかどうかの判断を行う。

面談方式 : 判事は、本人、弁護士、および関係者による面談を行う。精神科医、検察は、診断書および意見書を提出する。目的は公平な議論を交わした上で、同意がなくとも強制入院を続けるかどうかを決定するためである。

基本的人権の尊重 : 判事は個人の自由と尊厳を含む入院者の基本的人権が尊重されているか、非人間的で劣悪な扱いをされていないか、を見張る。

決定 : 決定に際しては、医療的側面と法的側面の全てを考慮する。


限界

煩雑で時間のかかる手続き : 面談は複雑で時間を要するものであるため、決定が遅れ関係者を傷つける。

事務の量 : 様々なケースが現れるにつれ、判事の仕事が嵩み、仕事の質に影響し決定を急くようになることで、入院者の権利が充分に守られなくなる懸念がある。

医療関係者の見解に依存: 判事は医療側の見解を基礎において決定を下す。時には 疑問を呈すべき法的判断が、医療側の見解に依存しているのではないかという疑問が浮かぶ。

ケースの複雑さ : 人の精神的な状況はしばしば複雑で評価が難しいため、判事の仕事を大変繊細なものにとしている。決定は解釈次第となる傾向があり、強制入院の必要性が妥当なものかを評価するシステムの能力が充分と言えるか、疑問が残る。


制度の利点、ポジティブな側面

個人の基本的人権を護る : 法的介入による厳格な権利監視システムにより基本的人権の順守を義務づけることは、不正な強制入院や虐待を予防する効果がある。

法治の独立性 :司法審査の存在により、法の独立性を保つことに寄与すると同時に、入院の必要性を評価する際の公平性を担保する。

面談の機会 : 面談により措置手続きの透明性を高め、本人が自ら証言する機会を保障することで、そのプロセスの正当性を確認できる。


制度の欠点と懸念

個別ケースの複雑性 : 精神医学的な状況は複雑で評価が難しく、医学的診断書への依存は、平等な法的正義に基づいた判断を下す能力と言う点で疑問が残る。

時間のかかる手続き : 判事による面談までの期間が長く、本人の精神衛生にとってマイナスであり、その遅れにより決定の質が左右されるであろう。

受け持ちの適性数 : 多くの複雑なケースを受け持つことが、一人ひとりに対する仕事の質を低下させる恐れがあり、制度が適切に機能するためにマネージメントが必要である。


審査制度の欠如がもたらす危惧

精神科領域に司法審査が無い場合人権に関わる様々な危惧が想起される。要点を挙げる。

公衆の不安 : 強制入院に倫理的、法的に正当な手続きを欠けば、公衆の信用と安心に影響を与える。

権力乱用のリスク : 法的な制御が働かない場合、医療や行政による権力乱用の怖れがある。独立した監視機関や法的な入院審査がない場合、恣意的で不正な決定がされる可能性がある。

個人の権利侵害 : 精神科病院に入院している人は特別に脆弱な存在である。法的な専門家を欠いたまま、同意のない入院決定を下すことは、このような人たちの基本的人権を侵害する。

透明性の欠如 : 判事による司法審査の存在は、同意のない入院のプロセスの透明性を高めている。この制度が無ければ、その決定に明瞭さと責任を欠くものとなる。

不平等 : 法的制御のない中での精神医療は、人種や性別による差別を引き起こす可能性があり、精神科病院でのケアに不平等が生じ、強制入院させられ易い人たちの存在も懸念される。

外圧 : 外圧、政治や行政などに影響を受け易くなり精神医療制度は神経質なものとなる。

入院必要性の評価 : 精神症状の複雑さは実際の入院の必要性を測りにくくしている。法的な審査は一つの補足的視点をもたらし、評価の独立性を保つ。

解決の複雑化 : 人権侵害や不正に対する法的な権利擁護は限定的なものとなり、訴訟の解決や基本的人権擁護に問題を残すことになる。


総合的な評価

司法審査制度は、公平と必要性の原則に則り、利益相反に介入して均衡を図り、個人の権利を保障する試みと言える。判事の役割は、強制入院が最後の手段としてのみ運用されることを確認することである。欠点はあるものの、この制度の存在は様々な欠陥を補うものであり、判事による独立した法的審査の存在は、精神科領域における個人の権利を保障するメカニズムとして必須である。この制度がなければ、病院における精神医療は正義と倫理の点において危険にさらされるであろう。

同時に、この制度は社会の側の安全を保障するためにも行われるため、判断には困難がつきまとう。制度を適切なものとするためには、現代精神医療の一層の進化と、その欠陥を補う法システム自体の能力に寄るところが大きい。コンスタントに権利擁護を行うためには、個人の権利により重点を置き、手続きをより迅速に行うなどして効果的に決定を行い、人権監視効果を高める改善が必要であろう。



感想2. Bastien MAIMBOURG (法学)

自由はフランス共和国にとって最も大切な価値の一つであり、公共の秩序を害することがない限りどんな場所においても保障されなければならない。

法的能力

患者は法的審査の対象となるための能力に欠ける場合があり、判事は彼らの法的能力と技術が不十分であることに戸惑うケースもあるように見える。法的行為の遂行能力は、認識し表現する能力を前提とし、法的権利を行使する際に重要とされるが、この能力は、人により長期的に或いは瞬間的に失われることがあり(薬の影響も含め)、行為の最中にその欠落が瞬間的にでも現れることがあれば、その人の法的手続きも限られたものとなる。

判事の専門性

判事にはそれぞれの分野の専門があるため、判断の際には他の専門家の意見が必要となることも少なくない。判事は自殺する権利、刑務所に戻る権利、退院して治療を続ける権利、あるいは治療を拒否する権利など、分野の異なる様々な疑問に答えなければならない。そして、これらの疑問は何ら『公共の秩序』や『他害』とは関係がない。同時に判事は、公共の秩序に反する、あるいは他害の怖れについて審査せねばならないが、想定されるリスクについての判断はあくまでも可能性の域を出ず、それにより個人の自由が奪われる。治療を受けるかどうかの判断は判事の能力を超えた要求であり、判事は『移動の自由の制限』の判断という本来の役割に留まることができない。総じて判断は、入院者の抗議に応じセカンドオピニオンを依頼する権利を十分に行使することなく、自動的に医師の診断書に従うことになる。


(1) 患者の権利は幻想か?

一方に、罪なき人に対して裁判が適切に行われていると言えるかという疑問があり、他方に、A)能力の問題 B)意識が正常かという精神疾患による医学的な問題がある。

法的能力の問題

フランスの法律では、何等かの保護の下にある人は段階的に法的責任を逃れることができる。映画に紹介された中には、ここ何年も成年後見の元にあるため、技術的に入院決定に対する不服申し立てが自分ではできないケースがある。精神疾患が重い場合、法的能力の行使を制限することが可能で、多分、他にも入院者が退院や再審査を要求するのに能力が不十分なケースがあると思われる。

その他に、退院を要求する決心をするその瞬間に譫妄状態にある可能性もあり、その要求は却下される。この審査はそうした能力の欠如した人にも権利を与えている。

患者と病識という医学的な問題

この法的審査の主な課題は、医療に基づく法的決定に対して、その決定が精神的な疾患を持つ人によって変更可能な点である。中には病院にいることにも気づいていないほど病識のない人や、医療を迫害と感じている人もいる。誰でも退院を要求できるが、それは病気であることを認めた場合に限るというジレンマもある。その場合、入院に対する正式な抗議と捉えられず、入院者は単なる傍観者となり本来の意味での行為者ではなくなってしまうだろう。そのような入院者を守るために判事がいるわけだが、判事に本当にその力があるか疑問が残る。


(2) 判事の権力は幻想か?

判事の専門外の役割

判事の役割は入院継続の可否を判断することだが、様々な法的課題に直面する。場合により近親者の要請なども考慮する。父親殺しのケースでは退院よりも、刑務所への送還の問題に直面し、その判断は他の専門家を必要とする任務となる。また、武器を所持して使用しようとしたケースでは、その者は実際に犯罪を試みたわけでもなく実行したわけでもない。武器の所持は違法だが、犯罪を予見することは難しい。判事は犯罪の可能性に関する専門知識を有するわけではなく、医師の決定に寄らずに自由を奪う判断を下すこともできない。

最後は自殺のケースについて。法は自殺を裁かないため、譫妄の存在を根拠として法的能力がない事実を指摘し患者を強制治療するのみである。その場合判事は、その法に従ってその人の自由を奪い、必然的に退院請求には対立することになる。判事は単なる公共の秩序の判定という権限に留まらず、屡々このような場面に遭遇する。

判事と医師の見解の一致

 全体として診断書の見解を追認するケースが多く、多くの場合判事は矛盾に直面することになる。判事はただ医師らの見解を示すためにそこにいるのか? 単に患者に病識がないというだけで、通院治療の可能性が否定され入院継続を決定する場合も見られる。似た状況でも、病識があり治療を受け入れる人には、通院の途を探る場合がある。本当に判事が状況評価しているのか、単に医師の決定に従うことに満足しないだけなのか不明である。

紹介された中に、判事が医師の決定とは別の決定を下すケースが1件だけある。(後見人がついている自殺願望のケース。ペット付きの療養型アパートへの転居を検討することで合意。) しかし、この決定が医師の見解とは別のものであるかは不明である。



感想3 清水アドリアン (芸術、神学) 

強制入院を決定するのは誰か?

2017年にフランスの写真家レイモンド・ドュパルドンが制作した映画「12 jours」は、精神医療と精神保健ケアの複雑さに焦点を当てた三作目で、2013年の法律が、日々具体的に適用されている様子を描いている。


制度の利点⒈ 強制入院の重大性が強調されていること

判事の一般的な役割は、個人の拘留に関する決定を下すことであり、警察の捜査、入国管理、強制入院において、個人の自由の剥奪を続行するか中断するかに同意することである。

どのような形であれ、監禁は些細な行為ではなく拘置所への収容と同等のものであり、自由という基本的権利への侵害である。フランスは、この問題に関しては司法上の資格者である判事のみが判断可能とし、入院の延長に関する決定権を医師から司法に移すことにしたもので、この論理は、自由をその核心的価値の一つとする国ではよく理解されている。


制度の利点⒉ 患者が新たな相手に対して再び中心に置かれる

病院は判事に連絡し、12日以内に彼らが入院の継続または中止を決定することを義務付けられる。この決定は、判事、患者、必要に応じてその法定後見人、弁護士、書記官、看護助手が参加する面談の形を取り、医師は同席しないため、患者は医療専門家以外の人に対して自由に感情を表現することができる。

判事が最初に、この制度と彼の診断結果、強制入院の理由(唯一可能な理由は自己または他者への危険性)を説明し、患者自身の見解を聴きとる。判事は患者に、自分の入院の理由を理解しているか、それに満足しているか、継続を望むかを尋ねる。あらゆる場面を通じて、判事は、精神状態に関わらず患者の声に耳を傾け、患者自身が自身の本当の願いを表現できるよう努めている様子が見て取れる。患者は同席する弁護士により自分の言葉を支持され、支援を受け守られる。この法律により、個人の権利が尊重されていることを確認する判事と、治療を行う医師との間にはっきりと役割が区別される。


視点

人権の観点から見ると、かつて医師だけが個人を強制入院させる権力を持っていた時代と比較してこの手続きは間違いなく進歩を表している。しかし、判事の仕事は容易ではない。判事は医師ではないが、複数の医師の診断書に基づいて判断を下すため、医師の診断は依然として判事の判断に影響を与える権威としての役割を果たす。さらに、面談を通じて、判事は患者に関する自身の意見を形成するが、ある意味それは相手を診断しているとも言える。個人ファイルの情報と、患者との会話を通じて、判事は患者が自分自身や他人に対して依然としてリスクをもたらしているかどうかを評価し、その入院を継続するか解放するかを決定する。精神医学の専門家でない判事は、解放が患者にとってより有益である場合でも、入院を選択することがあり得る。この法律が成立して10年、フランスは、精神医学の問題に対する感受性を高めるために判事向けの研修を行い、この制度の課題に対応し続けており、さらに、判断に誤りが発生した場合でも、患者やその周囲の人々(家族、弁護士、配偶者、法定後見人、ケアを要請した人)はいつでも判事に直接訴え、強制入院の決定に異議を申し立てができる。

強制入院は慎重に考慮された決定でなければならず、そのため、この責任から医師を解放することは健全である。この制度には確かにいくつかの欠陥があるが、自由な国において、個人の自由を奪うことが決して些細な行為ではないことを私たちに思い出させる重要な役割を果たしていると言える。さらに、この仕組みは患者に自身の権利を思い出させ、苦しみの最中にいる時にも、自分が基本的権利を十分に享受する権利を持つ完全な市民であることを伝える。



感想4. E.L. (現代文学)  他者にとっての狂人

「私は狂人になろうと思う。皆が私を治療して正気に返らせようと奮闘するように!」

フィヨドル・ドストエフスキー 


政治的イレギュラーを排除する民主的な免疫システム

社会はある問題に直面している。人の精神が狂気に支配されると、社会はある種の民主主義的な免疫系反応として、変則的なものを取り除き、安全で快適な秩序を取り戻そうとする。

狂気は単に個人的な問題であるだけでなく、より深いところでの不快感であり、市民としての関心から身を引くという症状でもある。他者の視線に敏感な個人は、暴力性や危険を感じ取り、受動的な存在となる。免疫系の総合体である社会の正常な通常運転の中で人は自身の正常を形成する。攻撃的でない理想的な市民として、躾られた消費者としての自己形成を怠らず、控えめにし、たとえ自由と自律が奪われても、政治的に幼児化された人々は、怖れのために様々な監視や安全装置を受け入れる。

正常値を満たさなければ隔離されるだけである。文化的な麻酔、医療的な予防法により素早く元の位置に押し戻される。それが、共に生きるための最善の方法なのか?

精神医療が幅を利かせるから市民が狩られているというわけではない。人々が正常な社会を期待すればするほど狂気の測りは拡張され微細に渡るのだ。


ジハード派と生まれつきの狂気

コロナ禍のロックダウンにはある種の空気が働き、感染を予防するため、全ての政治的な活動、衝突、抵抗は無視された。装置としての警察、取り締まり、それは自由と政治の自殺であった。このダイナミズムは、民主主義的生活のあらゆる側面に及ぶ。ジハードは狂気とされているが、ジハード派はイデオロギーに従ってその論理の内にテロ戦略を立てる人達だ。テロリズムを狂気とする根拠のない連想が、狂気に殺人の危険性という性格を負わせる。精神病と診断された人に比べ、どれだけの正気とされる人がより残虐な犯罪に至っていることだろうか。

誰にも共通に備わっていて最も区別し難い『血液』でさえも、逸脱、異常さ、反則の兆候を示すものとして捉え、差別と迫害の域にまで押し上げた血液型分類 (古川武治とカールランドシュタイナーが理論化) による強迫観念、迫害を思い出す。狂気に責を負わせるこの類は例に事欠かない。こうして狂気の発現は底しれぬ問題となり、精神医療化され隔離拘束などを発達させることになる。


奉職者

国際機関の基準では、遺伝子の脆弱さとして説明される神経的知覚の不具合により精神疾患を定義することに重点が置かれ、不足や欠如によって心の健康や健常性を説明しようとする。そのアプローチは、社会復帰を目指す化学的処方、リハビリテーション、即効的な成果を評価する。技術的な医学モデルはリスクに軸を置いたものであり、新たな社会的整形を促す。精神医療は思いやりをもって非標準的なものを病として標準化し、類型化して「公衆衛生の専門の下に」おく。DSMが法的な正当性を与え、精神科領域の経済機能を正当化する道具として優先され、思考や個人の主観を排除する。医療は技術的な情報の伝達に置き換えられ、医療者は診断と処方の評価の体系化に勤しみ、患者との交流は不活発になる。

大江健三郎は、子供の診断の際に感じた無力感と不公平感についてこう説明する。「子供は死か愚かのどちらかを選択することになる。」診断は決定的である以上にそれを超えて生きていかねばならないことを意味する。


解決に向けて

ガストン・ジョス

精神科医であり哲学者であるガストン・ジョスは、講演録『狂気、この通り過がり-闘う精神医療』で、精神科病院では、批判的でいるために距離を保つことの重要性を指摘する。病院長として、正直な人間としての理想を体現するために一般文化から人間的なテーマまで幅広い探究を続ける。専門的な原理のみに基づき診断を繰り返すよりも、多様な議論に耳を傾けることで、自身の専門への批判的な視点をもたらすとする。その研究は急進的で異端的であり、講演では標準的精神医療への疑問を提示する。


狂人の良識が溢れる町ゲール、その精神を分かつ市民

ベルギーにある町ゲールは、中世からユニークな精神衛生アプローチをしてきたことで知られる。伝統的に、精神疾患を患った人たちをホームステイによって家庭内に受け入れ、福祉的に共同体の日常の中に迎え入れ、町に包摂する。近年は減少傾向にあるが、この人間的なアプローチは精神保健において貴重なオルタナティブを象徴するといえる。「治療の場所」の歴史(六花出版)の著者、精神科医の橋本明はこの街に関心を持ち、日本のゲールを思い描く。


明日への希望

目指すべきは、命令したり拘束衣を着せたりして人を壁の向こうに押しやることのないアプローチであろう。人の語る言葉に興味をもち、より人間的なアプローチを選ぶ必要がある。この役割は専門家に限らず、ゲールの市民のように素人や市民の誰もが受け入れるべきだろう。それは全ての分野において、特に、全ての市民が参加し意見を述べる政治の場においても言えるだろう。

恒常的な対立を生む民主主義的テーマ、プロジェクトにひきこもることに疲れた私たちは、本来の市民性を発揮し、市民を裏切る貴族的な安全装置に疑問を呈し、民衆の怒りに光をあてなければならない。


≪他者の狂気は私の狂気でもある≫




おわりに

フランスには、80年代の退院促進により空き室となった大部屋を市民のアトリエ、シアターとして開放し交流の場としている公立病院や、誰でも出入り自由な自助グループGEM、逆に、町の美術ギャラリーが精神保健の拠点として使用されているものなどもあります。そんな双方向の交流も地域共生のカギと言えるでしょう。

日本においても、地域における様々な努力により、また診療報酬等の制度改正により、批判はありながらも、就労支援や訪問看護、ピアサポーター等の制度の下で、精神疾患等の診断を受けた人の9割を超える人たちが、自宅やグループホームに住み、地域で暮らすことが当たり前になりつつあります。その一方で、未だ26万人が入院による治療を続けており、中にはケアに伴う精神的ダメージを受けるという矛盾を抱える人もいます。特に、強制入院が制度として正当なものであるためには、入院による治療効果が明示され、安全性が保障されることが、前提となるのではないかと思います。

今年大きな問題となった滝山病院事件に関しては、第三者委員会が設置され、12月18日には調査報告書が公表されました。詳細な調査をされた委員の方々には、先頭に立って社会を変革して下さることと期待します。A.Cdsさんが審査制度の欠如がもたらす危惧の項で指摘されている点は、そんな日本の現状を考えるのにも参考となるのではないでしょうか。また、ベルギーの病院変革の試みや、フランスの人権保障の試みが、この現状を改善するためのヒントとなるのではないかと思います。


最後になりますが、探究のきっかけとなった出来事について少し書いてみたいと思います。私の妹は、1982年2月、ホテルニュージャパンの火災報道を見て失神し、以後様々な治療を受ける中で、改善と悪化を繰り返しながら自宅で療養を続けていました。パーキンソン病の父や私の健康を気遣ってくれる優しい子でした。1985年の暮に調子を崩し父の要請により入院、1986年1月6日未明、化学的身体拘束の後、うつ伏せのまま窒息死して発見されたと、病院から連絡を受けました。この事故とその後の事故対応が、私自身の精神状態とその後の人生に影響したことは言うまでもありません。

この事実をどう理解したらよいのかを考えるため、2017年に渡仏、探究を始めました。コロナ禍で度々延期となる中、2021年、地域精神保健を実践するリールで開かれた、WHO協力センター及び医療系3大学による研修『地域精神保健』を修了。ベルギーの改革はその中の一講座、この小論は、そのような自身の孤独と回復の支えとなった長い探究の成果です。この機会に、更に考察を深めることができたことに感謝しています。

その昔、学者や商人などが行き交う拠点に議論の場ができたのがUni-versityの始まりと言われますが、今では、インターネット上で誰もが自由に議論に参加できるようになり、市民の意識も変化しつつあるように思います。諸相を切り取るE.L.さんの考察は、市民の間で精神疾患が日常のものとなりつつある、意識の変容を垣間見るようです。私のフランスでの生活を支えてくれた友人L.L.さんが実は幻聴に悩んでいると知ったのも、3年後のことでした。また、A.Sさんが指摘するように、入院中も市民として大切にされていると実感でき、精神的ダメージから護られることは、一般市民にとっても安心な社会の基盤となるのではないでしょうか。

 この小論を読んでくださった皆さま、亡き妹、私の情熱を支えて下さっている心ある人たちに感謝いたします。いつの日かスティグマが消え、原爆記念碑やひめゆりの塔のように、精神医療犠牲者の方々の名が地にも刻まれる、そんな日が訪れますように。

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